真の自己犠牲

2021年4月のメッセージ

司祭グリゴリイ水野 宏

ジョージア・ジヴァリ聖堂

今年の西方教会(カトリックとプロテスタント)の復活祭は4月4日ですが、東方正教会では日程算出の基準となる春分の日をユリウス暦の3月20日(グレゴリオ暦の4月2日)としていますので、約1か月ずれて5月2日が復活祭となります。
復活祭を迎える準備期間としての大斎は3月15日から始まっており、4月末日の30日はイエスが十字架につけられたことを記憶する聖大金曜日です。
その意味では、正教会にとって今年の4月は、まるまる「キリストの受難記憶月間」と言えるかもしれません。

このキリストの受難、すなわち十字架上の死には何の意味があったのでしょうか。
よく「神の子キリストは、私たち人類の罪への天の父からの罰を、私たちの身代わりになって受けてくださいました。それが十字架上の死です」という話を耳にします。しかし、少なくとも正教会ではそのような解釈はしません。
福音書には「神はその独り子をお与えになったほどに、この世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためでなく、御子によって世が救われるためである」(ヨハネ3:16-17)と明記されています。つまり、神は人類を愛し、救おうとしているということですから、神が人類を罰するという解釈自体が聖書と矛盾してしまいます。
そもそも、神の意図が人類を救うことよりも罰することにあったとしたら、人類に天国は不要ということになり、キリストがこの世に来る必要もなかったことになります。

私たちはキリストご自身の位置づけと受難の意味について、以下のヘブライ人への手紙の記述に根拠を見出しています。
「キリストは既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、雄山羊と若い雄牛の血によらないで、ご自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖い(あがない)を成し遂げられたのです」(ヘブライ9:11-12)
これが言わんとしているのは、神は律法(この場合はレビ記4~5章)で、誰かが罪を赦してもらいたければ、祭司を通して動物を生贄に捧げるよう命じている。キリストは自らが祭司の役割を担うと共に、自らの体を生贄の子羊として捧げて、全人類の罪の赦しを天の父に願った。これが十字架上の死をキリストが進んで受け入れた意味である、ということです。つまりキリストの贖い(代償)とは、「人類の罰の身代わり」ではなく「赦しの代償の生贄の身代わり」という理解です。洗礼者ヨハネがイエスを「世の罪を取り除く神の子羊」(ヨハネ1:29)と呼んだのも、この解釈と一致します。

このようにキリストの十字架上の死は文字通り、真の自己犠牲であるというのが正教会の解釈です。
そして、クリスチャンが「キリストにならう者」であるならば、一人ひとりがそれぞれの立場で、自分をどう捧げていくか…これが正教徒にとって大斎をどう過ごしていくかを考える大きなヒントとなっています。