キリスト教の洗礼とは何か

~主の神現祭にあたって~

2022年1月のメッセージ

司祭グリゴリイ水野 宏

新年明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。
ちょうど2年前から人々を苦しめてきた新型コロナウイルスも、わが国ではワクチン接種の普及でようやく沈静化したかと思ったら、オミクロン株が出現しました。どなたも感染第6波への不安な気持ちで新年を迎えられたのではないでしょうか。
そんな中で、私が住んでいる熊本県人吉市では「Reborn」(再生)というスローガンを掲げ、皆が一昨年7月の豪雨災害からの復興に取り組んでいるところです。

さて、正教会は1月に主の神現祭(Epiphany of the Lord)という大きな祭を迎えます。これはイエス・キリストがヨルダン川で洗礼を受けたこと(マタイ3章他)を記念する祭であり、祭日は日本正教会では1月19日(ユリウス暦の1月6日)です。
私たちクリスチャンは教派の違いを問わず、キリストを神と信じて洗礼を受け、それで初めて信者と名乗れるわけですが、それではなぜ、神であるはずのキリスト自身が洗礼を受ける必要があるのか。ちょっと不思議な気がしませんか?
当時、洗礼者ヨハネという預言者が「悔い改めよ、天の国は近づいた」(マタイ3:2)、つまり待ち望んでいたメシア(救世主)が間もなく現れると予告して、ヨルダン川で人々に洗礼を授けていました。そこへイエスが来て、自分も洗礼を受けさせてほしいと申し出た時、ヨハネは当惑し「私こそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに」(マタイ3:14)と言っています。つまりヨハネ自身も、自分があなたの到来を預言してきたのに、何であなたが私から洗礼を受ける必要があるの?、と言っているのです。

この問いへの答えは、4世紀の教父・ニュッサのグレゴリオスがこう述べています。
「イエスはこの世の罪深い水に入り、上がった時に世に浄めをもたらした。」
つまり、イエスは目に見えない神が目に見える人間となって、この世に来られた方であり、その目的は罪が支配して濁ったこの世に生きる人類を浄めるためである。イエスがヨルダン川の濁った水に入って洗礼を受けたのは、それを示すものだ、というわけです。

洗礼者ヨハネも自分のところにイエスが来る前、「私は悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが…その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」(マタイ3:11)と言っています。つまり自分が授けている洗礼は、あくまでも救世主を迎えるための心の準備であり、これまでの罪を悔い改めた証しとしての儀式に過ぎない。しかし、キリストがもたらす洗礼はただの儀式ではなく、目に見えない聖霊の力によって浄めがもたらされる。だから同じ洗礼でも、両者は全く別物だというのです。
この浄めとは、より具体的にはこれまでの罪に陥っていた古い自分が死に、神と共に永遠に生きる新しい自分が再生するという意味です。
これについては、使徒パウロがロマ書(ローマ人への手紙)6章に以下のように記しています。ちなみにロマ書6章は、正教会の洗礼式で朗読される聖書の箇所です。
「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」(ロマ6:4)

冒頭で紹介した人吉市のスローガン「Reborn」ではありませんが、キリスト教の洗礼とはこのように「神と共にある人間の再生」、つまり神の似姿として創造され、エデンの園で永遠の生命に生きていた状態を取り戻すことだと私たちは考えています。この前提に立って、教会はコロナであれ何であれ、どんな困難に遭っても将来への希望をもって前進しているのです。
新年を迎えるにあたり、皆様が不安を希望に変換して何事にも向き合える年とされますことを、願ってやみません。