亜使徒聖ニコライと日本語
2022年2月のメッセージ
司祭グリゴリイ水野 宏
今月は、1912年2月16日に日本の亜使徒聖ニコライ(ニコライ・カサーツキン大主教)が永眠して110年を迎えます。
ニコライは1860年、サンクトペテルブルク神学大学をトップクラスの成績で卒業しました。帝政ロシアは大国であり、正教会はその国教会です。当然ながらニコライはロシア正教会の将来を背負って立つエリートと目され、キャリアの第一歩として母校の教授職を提示されましたが、それを固辞しました。彼は1858年に西欧諸国に開国したばかりの極東の島国・日本での宣教を志したのです。
1861年、函館のロシア領事館付きのチャプレンとして初めて日本の土を踏んだニコライは、日本語を猛勉強しました。函館には東北諸藩の武士が多く駐在しており、ニコライも彼らから日本語を学んだのです。そのため、ニコライの肉声は残っていませんが、彼の話す日本語は東北訛りだったと伝えられています。
以後、永眠までの半世紀、彼が最優先で取り組んだことは「日本語での祈りと宣教、そのための翻訳」でした。
日本の開国以後、カトリックもプロテスタントも多くの教会が設立されました。そして本国から多くの西洋人の宣教師が来日して布教活動が行われました。それに対して日本正教会は、草創期のチハイ兄弟など一部の同労者を除き、西洋人は基本的にニコライ一人だけだったのです。
明治6年に明治新政府がキリスト教布教を解禁した時、ニコライは既に日本人の伝教者を各地に派遣していました。つまり、彼は日本人にロシアの言葉を押し付けるのではなく、自分が学んだ日本語で日本人の門弟に教えを伝え、さらにその門弟が日本各地の人々に教えを宣べ伝えたのです。
その結果、明治10年代には全国各地に多くの正教会が設立されました。私が管轄する鹿児島ハリストス正教会は西南の役の翌年の明治11年、人吉ハリストス正教会は明治17年の開教です。ともに旧仙台藩士のイアコフ高屋神父が開拓宣教して創立したものです。
つまりニコライは、キリスト教は西洋人だけのものではなく、正教会もロシア人だけのための宗教ではない。様々な言語と文化を持つ世界の万民に向けられた教えだと理解していたのです。だから彼自身はロシア人だったにもかかわらず、「日本で日本人のための教会を造る。そのために祈りも聖書も日本語で伝える」ことに心血を注いだのです。
そもそもロシア人だけでなく、スラブ系諸民族はキリスト教を外国であるビザンチンから受け入れました。その宣教は、9世紀にキリルとメトディオス兄弟が、聖書や祈祷をギリシャ語からスラブ語に翻訳して行ったものです。キリルはそれまで文字を持たなかったスラブ語のために文字まで創出しています。彼の文字を改良して、ロシアやウクライナなどで今日まで使われているのが「キリル文字」です。
さらに遡れば、聖書は聖霊降臨の時に使徒たちが「聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した」(使徒2:4)と記しています。つまり、世界の人々に彼らの言葉で宣教する、言い換えれば「相手に分かるように教えを伝える」ことは、聖霊降臨以来のキリスト教のあるべき伝統です。正教会はこの考えを忠実に守り、ニコライも例外ではなかったということです。
そのおかげで、私たち日本正教会は今も日本語の祈りを守れる恩恵に与っています。よって、今の私たちの使命は「相手に分かるように教えを伝える」、つまりいろいろなメディアやツールを活用しつつ、聖書や祈りの釈義を分かりやすく人々に伝えることにあると考えます。私も宣教に携わる者の一人として、今後も亜使徒聖ニコライの精神を見習っていきたいと思っています。