十字架は勝利のしるし
~十字架挙栄祭にあたって~
2021年9月のメッセージ
司祭グリゴリイ水野 宏
9月27日(ユリウス暦の9月14日)は、正教会の十二大祭の一つである十字架挙栄祭です。これは4世紀に、ローマ帝国のエレナ皇太后が、イエスが掛けられた十字架をエルサレムで発見したことを記念する祭です。このエレナは、歴代ローマ皇帝で初めてキリスト教を容認したコンスタンチン(一般的にはコンスタンティヌスと表記)の生母です。
ちなみに上のイコンはエレナとコンスタンチン母子で、十字架が描かれているのは彼らが十字架の発見者であることを示すものです。
4世紀初め、ローマ帝国は広大な国土を2人の正帝と2人の副帝が4分割して統治するテトラルキア(四頭体制)という制度でした。西ローマの副帝だったコンスタンチンはローマ帝国再統一を目指し、他の正帝や副帝と戦を起こしました。
312年、西ローマの正帝マクセンティウスとの決戦「ミルヴィウス橋の戦い」の前夜、コンスタンチンは空に十字架の印と「これによって勝て」という文字が現れるのを見ました。そこで十字架の旗印を掲げて戦に臨んだところ、勝利を収めてローマ市を掌握。313年にそれまで迫害されていたキリスト教信仰を公認する「ミラノ勅令」を宣言しました。
その後もコンスタンチンは勝ち続け、ついに324年に帝国全土を征服。キリスト教を新しい国の柱に掲げ、新首都コンスタンチノープルの建設や、正統なキリスト教の教義を定義するニケヤ第一全地公会の開催など、キリスト教史に残る事業を成し遂げました。
当時のコンスタンチンは、十字架を「この世の戦争の勝利のしるし」と思っていたかも知れません。しかし、もちろんキリストが十字架を通して示したのは、そういうことではありません。
人間は神の似姿として、神と共に永遠に生きる存在として造られました。しかし、最初の人・アダムとエヴァが神の誡めに背き、善悪を知る木の実を食べたこと、つまり罪のゆえに人間はこの世で死ぬ者となってしまいました。(旧約聖書・創世記1~2章参照)
キリストは神(正確には神である子)が人間となってこの世に来られた方であり、十字架上の死は全人類の罪の赦しを天の父に願うため、子羊の代わりに自分の人間としての肉体を生贄に捧げたものと、教会では理解しています。(新約聖書・ヘブライ人への手紙参照)
キリストは神であり、同時に人間でもありますから、その死も私たち人間の死と同じです。しかし、死んで話が終わったのではなく、キリストは自分が予告していたとおり、死から復活して使徒たちの前に現れました。これを信じることで、私たちも地上の死を経て復活し、人間が創造された時の「永遠の生命」を取り戻すことができる。これがキリスト教の教義の基本です。(ヨハネによる福音書3章参照)
つまり、私たち人類共通の敵は地上のどこかの国や組織ではなく、「罪とその結果としての死」であり、キリストの十字架上の死と復活はそれに対する「勝利のしるし」なのです。
十字架挙栄祭では、花で飾り付けられた十字架を聖堂内に安置します。右の写真は昨年の十字架挙栄祭の時に飾られた十字架です。この十字架の前で参祷者は伏拝(ひれ伏すこと)するのですが、これは人間の罪と死に対する「勝利のしるし」である十字架への最大級の讃美の表れです。
一般社会においても、十字架はキリスト教会のシンボルマークと認識されていますが、教会の側は十字架、あるいはキリストの十字架上の死をどう理解しているのか、知っていただければ幸いです。