あなたの隣人とは誰か
~善きサマリヤ人のたとえ~
2021年11月のメッセージ
司祭グリゴリイ水野 宏
ルカによる福音書10章に、ある律法学者がイエスを試そうとして、永遠の命を得るためには「隣人を自分のように愛しなさい」というが、その隣人とは誰のことかと問う場面が記されています。それに対するイエスの答えが、有名な「善きサマリヤ人のたとえ」(ルカ10:30-36)です。
ある旅人が強盗に襲われ、重傷を負って道に倒れていた。そこに祭司が通りかかったが、その旅人を無視して行ってしまった。次にレビ人(教師)が来たが、彼も通り過ぎてしまった。三番目に来たサマリヤ人は、旅人を見て憐れに思って介抱し、自分のロバに乗せて宿屋に運び、宿の主人に彼のことを頼んで費用も負担した。ではこの旅人にとって隣人とは三人のうち誰か、というものです。
律法学者は「その人を助けた人です」(ルカ10:37)と答えざるを得ませんでした。素直に「サマリヤ人」と答えなかったのは、律法学者が想定している隣人とは自分たちの同胞、つまりユダヤ人だけであり、彼らが「異邦人」として蔑んでいる少数民族のサマリヤ人は対象と考えていなかったからです。
このような「隣人に条件をつける」発想に対し、たとえのサマリヤ人はどうでしょうか。そもそも一般論として、自分と関係ない人のために自分が骨を折る義務はないはずです。まして人間関係において、相手は自分を差別していじめるユダヤ人ですから、感情としては「好きになれない相手」でしょう。しかし、そういう好き嫌いの感情を抜きにし、一人の人間として自分ができる限りのことを行ったのです。このように、どんな人にも分け隔てなく愛をもって接することが、キリスト教が説くところの「隣人愛」です。
これに関連して、イエスはルカ伝6章で「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」(ルカ6:27)と言っています。理由は自分を愛してくれる人、自分の利益になる人を愛するのは当たり前のことであり、「罪人でも同じことをしている」(ルカ6:33)、つまり信仰とは全く関係ないからです。自分に関係ない人、さらには自分にとって嫌な人でさえも愛することに意味があるのであり、具体的に何をすれば良いのかについては「人にしてもらいたいことを、人にもしなさい」(ルカ6:31)とも言っています。
さらになぜそうすることに意味があるのかについては、「いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである」(ルカ6:35)、マタイ伝では「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも飴を降らせてくれるからである」(マタイ5:45)と言っています。つまり、個別の人間の善悪に関係なく、神は被造物である全ての人間を愛してくださっているのだから、神を信じるというなら自分も神と同じようにするべきだということです。
これらの教えを通して、キリスト教のいう「愛」とは好き嫌いの感情や思想信条、利害関係などで左右されたり、何かの条件をつけたりする問題ではなく、自分と他者との関係における考え方と行動様式の問題だということをご理解いただけたら幸いです。